カウンセリング心理学入門 日本で有名なカウンセリングの教授、國分康孝氏が語る、 カウンセリング心理学の入門書。 カウンセリングは、現代社会のいろいろなところで使われている。 職場で部下を指導する方法、学校で子どもの心を育てる方法 (心を育てるとは傲慢だ、と言われるかもしれない。 しかし、心は人が影響を与えて育てるものだ)、 家庭で結婚を育てる方法、人間関係を育てる方法、 といったものがある。上記のようなカウンセリングの用途を、 國分氏が明快に解説する。 まずは、著書をお読みいただきたい。 以下は、私の感想だ。ただ、熱が入ってしまい、 だいぶん長くなってしまった。 いろいろな視点からの解釈を行いたい方は 何か参考になるだろう。 「プロローグ」の、著者がなぜカウンセリング心理学の道に進んだかを 述べるシーンがおもしろい。
旧日本軍が存在したころには「特高警察」や「憲兵」などによる暴行、 人権侵害があったが、その一方でこのような教育もあったのが驚きだ。 時代・国家を超えた正義感、倫理観として通用するものではないかと思う。 バランスのとれた歴史の勉強にもなっていて、おもしろい。
私が教員養成課程にいたころ(1994-1998)も、教育学をはじめ、 多くの授業はアカデミズムだった。ノウハウの修得は独学しかない、と感じた。 これでは教師の力不足や、力量のバラツキがマスコミに糾弾されてもしかたない。 ただ、私が受けた「教育学」(明石要一教授)は、 雑談のような質問を次々と学生にぶつけながらも、教師のノウハウを教える、 という型破りな授業だったし、「道徳教育」(諸富祥彦教授)は、 「『ないたあかおに』の赤鬼は、青鬼がどこかへ行方をくらます前に、 何か手をうつべきだったのではないか?」と生徒に問う道徳授業を 提案するなど、プラグマティズムだった(諸富教授は國分教授の門下生)。 教員志望の大学受験生は「カウンセリング心理学入門」を読むとよい。 教員養成学部のイメージが事実に即したものになるし、 何を勉強すべきかがある程度見えてくるからだ。
就職試験で「この会社で、あなたは何をしたいのか?」と質問することが多い。 しかし、私はあほくさい感じしか覚えなかった。 問題意識が生じるのは30歳以降だ、と「『超』整理法」の野口悠紀雄氏は言っている。 仕事を与えられてから「この会社でこれこれをしたい」 という願望が生まれてくることが多い。「何をしたいか分からない」 人間を排除する態度は、即戦力になる優秀な人間をふるい分けするには適当だろう。 ただし、これでは、質問に答えられない若者が常態的にフリーター化し、 高度な職業能力をつける機会が奪われることになる。 エリート対没落者の二階層社会を生み、階層が固定化されてゆく。 社会全体は沈滞化し、活力がなくなっていくだろう。 エリート選抜のみを行うのではなく、まずはこの仕事をやってみろ、 と訓練させて、全体の底上げを行うことも必要だ。 アメリカ留学の初期に受けた質問で私に影響を与えた第二の問いは、 「君は何を知っているか」というものであった。私は「精神分析!」 と答えた。「今までの日本人留学生で精神分析を知っている者は いなかった。ワンダフル!」とほめてくれた。日本の大学では 「はみ出し者」と評された私は、「私をはみ出し者と評した教授こそ、 アメリカの基準でいえばはみ出し者である」と思うようになった。 つまり私は自己肯定感をとり戻したのである。これはその後28年して 私が母校に教授として迎えられたときにそれを受ける決心をした 伏線になっている。かつては私をはみ出し者と評した文化に対峙して みたいという気概の源泉であった。(pp.25-26) 私は教員養成課程を出て、英語科教員免許も取ったが、教師になっていない。 英語を使う仕事にもついていない。高校時代のある知り合いは 「お前の進路は間違っている。英語を使う仕事につけ」と10年来言い続けている。 この稿を書いているとき(2003年)になって思考の整理ができてきたのだが、 私は教師のノウハウを持ち、英語が話せる人間でありながらも、 教師として自分の時間を費やさず、英語の専門職として自分の時間を費やず にいるほうが、能力を能率的に使えるように思う。 その理由は以下の一節を紹介してから述べたい。
私は國分氏の上の主張に共感した。ある人間が教師になったとすると、 担当する中高生は、40人×40年=1,600人だ。 しかも、これはせいぜい県単位での数だ。 教育のノウハウは、人間の思考を180度転換させてしまうほど劇的だ。 (塾講師をやったとき、向山式算数・数学や、 3ラウンド・システムを実践して、私自身が驚いた。 また、増田式キーボード学習法には、学習者として驚愕した) せっかくのよいノウハウだから、広めるべきだ。 私個人ががんばっても、影響を与える人数が少なすぎる。 「教師個人のがんばり以外、子どもに影響は与えられない」と言う人もいるだろう。 しかし私はそういう考えが好かなかった。悠長すぎる。 私は、教師が頼りないならこっちから調べ上げるタイプだった。 また、教師によって授業の質が左右されるのはよくない、 よい教科書を読む方が、教育の質が平準化されて望ましい、と考えた。 よいノウハウを広く紹介して、多くの人に独学してもらうほうが、 パイを豪快にとれるし、私の手間がかからないし、 強制されて学習するわけでもないので、教師よりも有意義だと私は思った。 そのため、私は教員養成系大学から教師へ、とか、 英語を勉強したから通訳へ、という 単純明快な進路を捨てたことに何の疑問も感じない。 私のウェブサイトを手がかりに、かつての同士(大学の同期生など) や通りすがりの人が自分なりの研究をすすめてくれるほうが、 日本社会に大きな影響を与えるだろう。 私の地元、市原市で、最近(2003年)市議会議員選挙があった。 当選者は2,000〜4,000票程度の得票だった。 この桁数で、市の政治に影響を与えることができるわけだ。 ウェブサイトへのアクセス数がもしこの数だったら? しかも、読んでほしい本を知っている人は私だけではないはずだ。 「お薦めの本」のコーナーが多くの人に作られることは、 社会改革の要求を、草の根から無理なく進める一方法になるだろう。
上記の「留学時代」とは、博士課程である。 繰り返しになるが、博士課程の段階でなお人間教育を 行っているのが驚きだ。専門知識を教えないのかどうかは 定かでない。しかし、人間教育をずっとやってくれるのは たいへんありがたいことだと思う。日本の学校教育は、 教師が生徒を一人歩きさせるのが早すぎるのではないか、と思える。 |